宮 川



JR芦屋駅東北東の上宮川橋から北を望む  撮影:2004年 6月29日

国道43号線南の宮川
国道43号線の南、河原橋から南を望む 撮影:1999年11月14日

 この宮川には芦屋で一番古い橋と言われる西国橋が掛かってる。この川は打出と芦屋とを分ける川と思われているが、そうではない。境界はもう少し西。現在の宮塚町と茶屋之町との間を流れていた念仏川なのだ。念仏川は現在は暗渠になってしまっているが、その昔は宮川より大きな川だったのかも知れない。

 「下流に金比羅宮があったので宮川という」と聞いたことがある。その金比羅さんは今は打出天神社に一緒に祀られている。
 宮川は昔、打出川とか呉川(くれかわ)呼ばれたり、都川なんて書かれてることもある。けど、今は宮川以外の呼びかたは通じないと思う。

 この川の左岸上流で弥生時代の石鏃や土器が出土したそうだ。場所は芦月橋近くの大原町だそうだから、ここから数百メートル以内の場所だ。

 宮川の源流はどこだか確かめたことがないけど、芦屋霊園の北の剱谷あたりだと思う。

 細くてまるで溝のような川だが、馬鹿にできない。カエサルが悩みぬいた末「賽は投げられた」 "Iacta alea esto!" ("Iacta alea est.", "Iacta est alea.") と言って渡り、その後のローマ史を、いやヨーロッパ史をも変えたと言われる、あのルビコン川だって細くてちっぽけな川だ。
 この宮川は、1998年の台風のとき、上の写真の辺りを散歩していた婦人が宮川に転落して流され、数百メートル下流で救助されたって話が新聞に載ってた。小さな川と侮れない。

 下の写真は国道43号線のすぐ南、今も呉川の地名が残る呉川町と西蔵町の間の河原橋から撮影したもの。金比羅さんは“字下宮塚”にあったそうだから、このすぐ北だろう。
 正面に新しい打出、シーサイドタウンの建物が見える。

 打出浜は漢人浜(あやひとはま または からひとはま)の別名があったりするし呉川の地名が残ってることから、打出&芦屋の海辺、特に宮川流域には、昔、渡来人たちが住んでいたかも知れない。律令制がしかれた頃、芦屋地方には「自分たちは渡来人の子孫だ」と申告した人たちがいたのは文献にも見られる。
 会下山遺跡や市内の古墳からの発掘物からすると、芦屋へ渡来人たちがやってきたのは意外に古いかも知れないってことだ。むしろ、古代の芦屋の文化の礎は渡来人たちによって築かれた、とも思えるそうだ。
 ま、渡来人は、なにも芦屋地方だけじゃなく、近畿地方に限っても大阪湾沿岸から播磨(姫路のあたり)にかけてたくさんいたらしいけど…。


富田砕花旧居
富田砕花旧居 芦屋市宮川町4-12
撮影:1999年11月13日

 宮川の西岸、阪神電車の線路と国道43号線の間の住宅地に谷崎潤一郎(1886-1965)が3年間住み、その後大正時代の庶民派詩人、富田砕花(1890-1984)が住んだという富田砕花旧居がある。
 阪神・打出駅から西北西に400mほどのところだ。富田砕花は出掛けるとき、打出駅を利用したかも知れないな。

 その話を芦屋の古老にしたら「富田砕花は申新田(現公光町)のキクチさんのお婆さんの借家に住んではったけど、変わりはったんやね」とのたまってた。たぶん、ここも借家だったんだろう。(笑)
 その後、この古老に聞いたところによると、富田砕花は申新田の前は茶屋芦屋(現茶屋之町)に住んでいたそうだ。

 表に焼き板が張ってあって…。芦屋の普通の人の家は、こうしたのが多かった。でも、平成7年(1995年)の阪神大震災で、豪邸も含めて芦屋の古い家はほとんど全滅したようだようだ。
 たぶん、この家も地震で大きな被害をこうむり、修復されたか再建されたかだと思う。


谷崎潤一郎記念館
谷崎潤一郎記念館
芦屋市伊勢町13  撮影:1999年10月14日

 谷崎潤一郎の住んだ家というのは、宮川町の富田砕花旧邸のあたりにあったような記憶が、うっすらとあるけどあまり自信ない。
 なお、「谷崎潤一郎記念館」と言うのが伊勢町の芦屋市立美術博物館の隣にある。





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