国道43号線&阪神高速3号神戸線


打出交差点(打出若宮陸橋より)  撮影:1999年10月25日

工事中の43号線(第2阪神国道)
撮影:昭和36年(1961年)6月2日

 幅50メールの国道43号線だ。第2阪神国道とも呼ぶ。地元では“よんさん”とか“にこく”なんて言ったりする。

 “よんさん”の上を走ってるのは阪神高速3号神戸線。昔はこの辺りは神戸までの西国街道・浜街道で、明治になって県道を経て国道に昇格したが、昭和2年(1927年)に国道2号線が開通してからは、旧国道と言った。

 旧国道を整備するとき、道幅を平均2間に広げたそうだ。4メートルなかったわけだ。で、新しい国道43号線は打出から先はほぼその旧国道のあたりに通された。
 43号線が旧国道(西国街道・浜街道)と同じルートになるのは、ちょうどこの辺り、先に見える陸橋のあたりだ。

 旧国道には昭和3年(1928年)から尼崎−大石(神戸市灘区)の間にバスが走ったりしたが、舗装工事が始まったのは、やっと昭和9年(1934年)になってからだ。上に“旧国道は幅2間”って書いたけど、この舗装のときに広げられて、やっと幅2間になったのかも知れない。


 第2次世界大戦後、自動車交通が増え、国道2号線の下にもう1本国道が通さることになった。これが今の国道43号線(第2阪神国道)だ。
 芦屋市内の国道43号線は昭和31年(1956年)に着工され、昭和38年(1963年)に兵庫県下の全線が開通した。また、大阪万博の前年、昭和44年(1969年)には43号線の上に阪神高速道路が開通した。
 開通当初、43号線は片側4車線だったが騒音公害問題から外側の1車線がグリーンベルトに変更され、片側3車線になった。

と、書いてしまっているが、2001年 1月19日付けのメールで

いつか(震災前?)の朝日新聞の記事では、
「開通当時片側5車線、阪神高速神戸線の開通で
片側4車線となり、湾岸線開通後の交通量の減少と
公害対策のため、3車線に再削減される」と
書いてあったような気がします。

3車線への削減計画は震災前からありましたが、 そこへ震災となり、再整備と同時に 削減されたことは覚えています。
わからないのは、1963年の開通当時、 5車線だったのか4車線だったのかということです。
 と、ご指摘を頂いた。

 また、2001年 3月16日に春日町の伊東さまからもメールを頂戴した。

私が小学校2、3年くらいまでは5車線あったのを覚えています。
しかし東灘の住吉での事ですが、たぶん芦屋でも同じではないでしょうか。
 とのことだ。さらに「昭和53年くらいまでは5車線だった」とおっしゃる。当時、伊東さんのお宅は43号線に面していたそうなので、間違いないはずだ。だから、国道43号線は開通から少なくとも15年ほどは5車線だった、と訂正しておく。


 モノクロ写真は43号線がまだ工事中のときの写真だ。バイクで走りながら写真を撮った記憶がある。
 上の写真は正面に打出のガスタンクが見えるので、西宮市川西町あるは芦屋市大東町付近での撮影と思う。下の写真は、南宮町と大東町との境目あたりから打出交差点方向を撮ってるようだ。画面右端に打出市場が小さく写ってる。

 なお、下の写真に写ってる車は前輪が一つしかないけど、これはその昔にあった“オート三輪”と呼ばれる貨物専用車だ。(爆) 基本はバイクに幌をかぶせて後ろを2輪にし、大きな荷台をつけたものだ。だから、本来はバーハンドル、空冷エンジン、一人乗りなんだけど、後期には丸ハンドルで二人乗りのもあった。ダイハツ、マツダ、くろがね、みずしま、アキツなんてオート三輪を覚えてるなぁ。たぶん、昭和初期から昭和50(1975)年ころまで造られてたと思うけど、その全盛期は昭和30年前半だったろう。あ、そう言えばダイハツのヒット作、軽三輪の“ミゼット”(昭和32-47: 1957-1972)もオート三輪の一種だったな。
 小回りがきくので狭い場所に適してて、街から姿を消して後もJRの梅田貨物駅などで作業してたのを見たことがある。欠点は不安定なこと。高速で急ハンドルを切ったりしたら簡単に横転する。
 オート三輪のナンバー・プレートの車種区分番号(?)は“6”だったと思うけど、もしかしたら“7”だったかも知れない。なお、オート三輪は東南アジア諸国では今でも現役で走ってるらしい。



 このオート三輪、アップにしてよく見るとガラスは板硝子を組み合わせてあるようだ。また、ワイパーもまん中に一つしかない。安く上げるための工夫なんだろうな。しかし、なかなか精悍な顔つきだ。(笑) この車はなんとなく“みずしま”のような気がする。




こんなことしたりして
ぶっ飛ばしてたら
パトカーがやってきて
怒られました(爆)

まだ工事中の国道43号線
こんなことして遊んでる子がいた(笑)
よい子は真似しないように
(後ろにあるのはガスタンクだ)

芦屋市若宮町、打出町&大東町付近
撮影:昭和36年(1961年)7月1日


 このページの最初の写真の場所は、阪神高速の芦屋出口のすぐ西だが、ここは事故の多い交差点だ。橋脚がジャマになって、大阪方面から右折する車と、神戸方面から直進する車がお互いに見えない。拙者の親戚の人間も知人の車に同乗しててここで重傷を負った。
 おまけに北に曲がるとすぐに阪神電車の踏切があって、ラッシュ時にはいっぱいになって曲がれないこともある。なんとか改善出来ないもんかなあ。

 平成7年(1995年)1月17日未明の阪神大震災では、芦屋のすぐ西の神戸市東灘区の深江でかなりの規模、阪神高速・神戸線が崩れ落ちた。また、西宮市の甲子園球場近くでもスキーバスが道路の切れ目に前輪だけ乗り出し、「おっとっと」って感じで辛うじて転落を免れてた。
 阪神高速が崩れ落ちたんで、その下にある国道43号線だって通れなくなってしまった。そんな訳で震災からしばらくの間、大阪−神戸間の大動脈はずたずたになり、完全に麻痺してた。

 ちょうど地震の起きたとき、深江の阪神高速を走ってた人の話を聞いた。目の前の道路が大阪側から「ぱたぱたぱた」と順にゆっくりと倒れていったそうだ。高速道路に車を置きっぱなしにして必死の思いで下に降りたそうだが、その後、車を取りに行ったのかどうしたのかまでは聞き漏らした。

 下の2枚の写真なんだけど、懐かしいガスタンクが見える。国道43号線はまだ外側の2車線しか出来てないみたいだな。
 パトカーがやってきた場所はちょうど阪神高速・神戸線の芦屋出口付近だ。

 今、この写真見てて気が付いたんだけど、このパトカー、逆送してる。日本じゃ昔から“車は左”だぞっ。
 ガスタンクに近い方に上り車線があるから、パトカーが走ってるのは下り車線なんだ。なのにパトカーは芦屋方面から上り方向に来てる。そんなに重大事件でもないのにね。(笑)
 上の6月の写真からも、このときはまだ国道43号線は正式の“道路”になってなくて、上り車線もまだ出来てなかったんだ。だから車道をのんびり人が散歩してたりする。
 念のため、元の画像を拡大してみたら、パトカーのナンバープレートの文字もちゃんとなってるし、ハンドルも右側にある。だから、画像は左右反転してない。“逆焼き”とか“裏焼き”とかじゃない。

 ちなみに、バイクのにーちゃん、ヘルメットを被ってないけど、昔はそんなもん被らなくてもよかったんだ。もちろん、大型のに乗る人の中にはメット被って皮ジャン着て正装してた人もいたけどね。


 ところで、昭和40年(1965年)10月26日真夜中の1時過ぎ、打出の 1km 足らず東の西宮市川西町の43号線でLPGタンクローリーが横転して炎上するという事故があった。
 横転からしばらくして、タンクローリーから漏れ出したLPGが気化して、それに何かの火が引火して大爆発を起こした。その火は43号線の両脇にまで広がり、あたりの家が燃え上がり多数の死傷者が出るという大惨事になった。

 陸橋の上から横転したタンクローリーの様子を撮影していた新聞社のカメラマンの方が爆風で下に吹き飛ばされ、43号線上で真っ黒になって焼死されてるのを多数の人が目撃してる。カメラマンのかたは、たまたまこの現場の近くにお住まいだったんだ。

 あまりの大音響と炎に、打出の住民はてっきりこのガスタンクが爆発したと思ったらしい。阪神・打出駅のすぐ北側からだと、ちょうどガスタンクが火を噴いてるように見えた。また、タンクローリーからガスが漏れだすシュルシュルシュルって音は打出からも聞こえた。それも雨戸越しにだ。

 このガスタンクは芦屋市打出町6にあった。芦屋市史には、「大正元年(1911年)8月29日、神戸ガス株式会社が容量5万立方フィートのタンクを打出に設置し、同年11月から供給を開始した」と書いてある。
 けど、1999年10月28日に大阪ガスに問い合わせたところ「神戸ガスの記録を調べると、精道村打出字掘江のガス供給所の設置は昭和3年(1928年)10月になってる」そうだ。狭い打出にそうぽこぽこガスタンクを造るわけないし、造りなおしたんだろうか?ガスタンクとガス供給所とは違うんだろうか??

 ま、その後、神戸ガスは大阪ガスと合併したんだろう、ガスタンクは大阪ガスに引き継がれたみたいだ。しかし、いつの間にかガスタンクは撤去され、今はもうない。そのあとには、大阪ガス関連の会社“(株)ONE・芦屋ガスセンター”ってのがある。








 はっきり言って、芦屋はあまり空気のいいところとは言えないのだ。国道43号線と阪神高速はトラックなどの通行も多いし、すぐ北には国道2号線が走ってる。
 おまけに市の北にある六甲山がジャマして空気の流れが悪いし、西風に乗って神戸市内の工場なんかの煙が芦屋に向かって来たりする。
 神戸市内にあんまり煙の出る施設を作らないで欲しいな。芦屋は四季を通じて西風が多いんだぞ。>神戸市


色々調べてみたんだけど、打出のガスタンクがいつ撤去されたか、結局判らなかった。こういう施設って出来たときは華々しいけど、役目を終えたときは淋しく消えてゆくみたいだ。
 人間の天才と逆だな。天才は死んだときは大騒ぎされるけど、その誕生のときは静かなもんだ。(爆)





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