阪神電鉄・打出(うちで)駅付近 −1−


阪神打出駅 北側より
阪神打出駅(北側)  撮影:2004年(平成16年) 7月 1日

阪神打出駅プラットフォーム
阪神打出駅  撮影:2000年(平成12年)5月22日

打出駅のプラットフォームの擁壁
打出駅のプラットフォームは延長されたので継ぎ足されてる
撮影:1999年12月14日


打出駅北側
阪神打出駅北側  撮影:1999年11月13日


打出駅北 天神社とフランス料理店 撮影:2004年 7月 2日
 左の写真は阪神・打出駅の北側だ。南側は国道43号線まで商店街が続いてる。

 朝7時前なのでこの写真では人影が見られない。って、普通電車しか停まらない駅だから通勤ラッシュ時間でもそれほど混雑しないけどね。ラッシュ時でも、その気になればシートに座れる。(笑) また、打出の北側の住民の中には、通勤・通学にJR芦屋駅を利用する人も少なくない。

 先に書いたように、打出駅は普通電車しか停まらないから、特急や急行に乗った場合、大阪方面からだと西宮で、三宮方面からだと御影か芦屋で普通に乗換えだ。


 阪神電鉄(本線)は明治38年(1905年)に芦屋市内に駅(停留所)を作った最初の鉄道だ。打出駅のプラットフォームそのものは開業当時のものがメンテナンスされながら使われている。
 ちなみに1905年と言うと、あのアインシュタインが「特殊相対性理論」を完成させた年だ。

 電車の編成が長くなったのでホームが継ぎ足されたんだけど、なぜか擁壁(ようへき)の積みかたが違う。よく見ると画面の中央付近で積みかたが変わってる。ま、積んだ人もなるべく目立たないようにやったらしいしね。
 東側(右側)が古い部分で、西側が新しく継ぎ足された部分だ。古い部分はたぶん明治時代からそのまんまだろう。

 新しい部分は“崩れ”って積みかただと思う。住宅の石垣では時々あるけど、このへんのプラットフォームではあまり見掛けない。拙者は“鉄ちゃん”じゃないから詳しくないけど…。確か、二つ西の神戸市東灘区の深江(ふかえ)駅のホームもこんな擁壁だった。

 ところで、なぜか打出駅と深江駅とは、雰囲気が似てる気がする。よく見ると全然違うのに、電車の中からだとよく間違えそうになる。
 三宮方面から帰って来るとき、ぼんやりしてると深江で降りそうになるんだ。間違えて、あわててドアのところまで走って行ってすごすご引き返すのって、カッコ悪い。^^;


 上から4つめの写真は打出駅から北の方角を見たところだ。この道を登ってゆくと打出天神社阿保(あぼ)親王塚の方に行く。あ、写真の右端に“阿保親王廟”の道標が見える。東西(左右)の道路は旧西国街道の一部だった。今は鳴尾・御影線になってる。
 そうそう、鳴尾・御影線の工事のとき、道が広げられたんで“阿保親王廟”の道標は元の場所から5メートルほど北へ移されたんだった。

 手前は打出駅まで少し坂になってるが、今から1万年ほど前はこの辺が海岸線だったんじゃないかと思う。春日町の東部は少し小高くなってて、昭和13年(1938年)の阪神風水害のときにもまったく被害がなかったそうだ。

 上に書いたように、打出天神社はこの北にあるが、古代の人も安全な土地と知ってここに神さまを奉ったんだろう。どうやら打出駅の北側、旧西国街道・本街道(鳴尾・御影線)のあたりが古い地層、翠ヶ丘台地の最南端らしい。

 平成元年に上から4番目の写真の右手のビルが建てられたとき、弥生式の土器や貝塚が発掘された。近くには旧石器時代から縄文時代の遺跡、堂ノ上遺跡や縄文時代から江戸時代に掛けての複合遺跡、若宮遺跡もある。更に、金津山古墳小槌古墳といった古墳時代後期の前方後円墳が二つもあったりする。災害の少ない土地だったんで古くからずっと人が住みつづけたのだろう。



戻 る トップ 次へ