金 津 山 古 墳


北側から見た金津山古墳
芦屋市春日町3  北側から撮影:2003年12月 5日
北側から見た金津山古墳
芦屋市春日町3  北側から撮影:2004年 1月20日

 阪神・打出駅の北東百メートルほどのところにある。5世紀後半の中期古墳らしい。以前は円墳と思われていたが、平成元年(1989年)、全長約55mの前方後円墳だったことが判った。

 その後、平成11年(1999年)暮れから平成12年(2000年)春に掛けての調査で更に詳しいことが判ったが、それに関しては次頁に書いてる。

 さて、この金津山古墳は、芦屋市内で発掘された最初の前方後円墳で、市内唯一の前方後円墳だ。
 と、思ってたら1999年7月から8月に掛けての調査で、このすぐ西の打出小槌古墳が市内最大、全長約90mの前方後円墳だということが判った。

 この辺りは、昔はもっと海に近かったんで、この2つの古墳は、海上交通を支配した豪族の墓だろうと想像されている。

 戦後すぐには、手前の家の辺りに池があって蛙やタニシやザリガニが住んでた。ウソだと思ったらヨッちゃんに聞いてほしい。(爆) もしかしたら、それって古墳のまわりの堀の一部かも知れないって思ってる。

 この古墳は黄金塚(こがねづか)または金塚(かなづか)とも呼ばれ、打出村の飢饉に備え、黄金などが埋められたという伝説もある。で、黄金を埋めたのは阿保親王(792-842年)だという伝承が一般的みたいだけど、神功皇后が新羅出兵に際して打出の民のために埋めたって説もこの打出にはある。
 8世末前後に後から埋めたってんならまだ判るけど、神功皇后って、あの人、応神天皇のお母上だから、4世紀のお方のはずで、金津山古墳よかはるかに年上だと思うけどなぁ。(笑)



芦屋市春日町3
打出天神社への旧参道
金津山古墳西側の細い道だ
手前の道を右に曲がると津山古墳
今は裏道だけど昔はこっちがメインの参道だった

昭和30年代まで、奥の白い家の辺りに
広場があって、天神社の鳥居と灯籠があった
また戦前には右手の生け垣の中に
テニスコートがあったと聞く

撮影:2004年 7月 4日
 神功皇后ってば、打出の名前の由来として「神功皇后がここから新羅に打ち出たから、打出という」という説も聞いたことがあるけど…。

 ともかく、黄金塚を掘って黄金を掘り出そうとしたものには、ことごとく天罰が下ったそうだ。そういう言い伝えがあるから、打出小槌古墳のように完全に破壊されず、後円部分だけは残ったんだろう。

 ところで、芦屋市立美術博物館で教わったんだけど、近畿各地だけでも金塚(かなづか)の伝承は各地にかなりの数、あるそうだ。「黄金千枚、金瓦万枚を埋めた」って伝承も同じだったりする。で、飢饉の時、伝説を信じて某所の金塚を実際に掘ったら、錆びた鉄剣とかが出て来ただけだったそうだ。(笑) …って、飢饉で困ってた当事者のとっては笑いごっちゃなかったろうな。
 金塚の“金”とは化学記号 Au で表される現在の貴金属 gold だけじゃなく、金属全般を意味したらしい。そう言えば、現代の日本語でも“金”には“きん”、“ぜに”、“かなもの”の三つの意味がある。金物屋さんに金のブレスレットを買いに行ったりしないな。金物屋さんに置いてあるのはほとんどが鉄器だ。(笑)

 この金津山古墳の上には明治のころまで、厳島神社の祠があったそうだ。しかし、今はこの厳島神社、打出天神社内に祀ってある。
 以前は塚に自由に登れたので、子供達の恰好の遊び場所だったんだけど、失火があったりややこしいことがあったりしたんで、近ごろではフェンスで囲ってあり、鍵が掛かってる。





金津山古墳 南側より
芦屋市春日町3  南側から撮影:1999年10月9日

金津山古墳 昭和7年の地図より
昭和7年 精道村明細図の金津山古墳
(芦屋市史より)
方角を加筆


 左の写真は残ってる後円部だ。写真の右手前方向の延長上に方墳のあとが見つかり、前方後円墳だったことが確認された。

 方墳は下の地図の“原”の字の左側方向にあった。また、円墳の北にあるのが昔に見た池だと思う。第2次世界大戦の前には、塚の北西にテニスコートがあったって聞いたなぁ。

 この古墳のすぐ西からは弥生時代の遺跡が発掘されてるから、古墳時代よりはるか前からこの辺りには人が住んでたはずだ。 


金津山古墳航空写真
広報あしや 平成元年(1989)6月15日号 (No. 545) より

金津山古墳のいわれ
金津山古墳について  撮影:2004年 1月20日

 家の中を捜してみたら、前方部が発掘されたときの“広報あしや”が出てきた。で、市の広報課にお願いしてその写真を転載させて頂くことにした。左がその“広報あしや”に載ってた写真だ。
 文字が読みにくいけど、上の地図と方向を揃えてみた。写真を横向けると、なんか異様な感じがするがご勘弁願いたい。(笑)
 上が北、下が南だ。だから、写真の下の方、左右に走ってるのが鳴尾−御影線で、旧西国街道・本街道のあとだ。もちろん昔よりかなり拡張されてるけど…。

 このときの調査で金津山古墳は周濠のある、全長55メートルの前方後円墳であることが確認された。この前方部は鎌倉時代にはすっかり削り取られていたそうだ。
 そう言えば、以前、後円部頂上付近に石組があったのを覚えてる。「石室の一部だろうか?」と思ったんだけど、芦屋市埋蔵文化財課によると、その石組みは後代に置かれた厳島神社の祠のあとだそうだ。

 発掘された濠の中からは流れ込んだ埴輪や土器、葺石なんかがたくさん出てきたようだ。中でも頭の大きさが 12cm もあるニワトリ形の埴輪なんては結構珍品だそうだ。

 写真の“調査地”と書いてある部分には、今は大きなマンションが建ってる。

 直接関係ないけど、“広報あしや”の写真を見てると「この写真にはあるけど、1995年の阪神大震災で潰れてなくなった家がずいぶんあるなぁ」と思ってしまう。そう、この付近の景色も震災以降、激変した。

 って、思いながらぼやーっと写真を見てたら、前方部の西半分のところにあったお宅が地震後再建されてないのに気がついた。しかも、ついこないだあそこは草刈りしてた。もしかして周濠のあととかが…、って行ってみた。下のカラー写真の所だ。
金津山古墳の南側
南側より 芦屋市春日町3-14  撮影:1999年10月23日

 で、発掘調査は1999年12月16日から2000年3月6日までの予定で行われ、2000年3月6日(月)に見学会が行われた。





戻 る 次へ トップ