金 津 山 古 墳 2



金津山古墳全体図
2000年3月6日 現場見聞資料を加工

金津山古墳付近の上空からの写真
付近の上空からの写真 (見学会のパネル写真を撮影)


 2000年(平成12年)3月6日(月)、金津山古墳・前方部・西半分(右の図の茶色部分)の発掘調査見学会が行われた。場所は芦屋市春日町3-14だ。

 こうした発掘調査の場合、日曜日に現地説明会が行われるのが普通だけど、日程の関係か平日の見学会となった。文化財課の方でも色々と都合があるのだろう。

 さて、今回の発掘調査で金津山古墳の色んなことが判ったようだ。

  1. ・古墳の全長 55m
    ・後円部径 42m
    ・前方部長 13m
    ・周濠は前方部前端で 2.7m、隅角付近で 4.7m、くびれ部で 10数m
    ・周濠の形態は馬蹄形

  2. 構築年代は 450〜475年で打出小槌古墳より約20年古い

  3. 中世・南北朝の打出浜合戦(1335年)当時の遺物が出土していて、墳丘が砦や陣地に利用されたらしい

  4. 15世紀の初めには前方部の盛土が取り除かれ、後円部だけにだけになっていた
 ところで、この金津山古墳の格好だけど、有名な前方後円墳に比べると、前方部がやたら小さく“ほたて貝”型をしてて、結構貧弱に見える。
 どうやら当時の大和政権からの「あんまり立派なのを作るな」って政治的圧力から小さくされたらしい。兵庫県伊丹市にある御願塚(ごがんづか)古墳もやはりこんなスタイルだそうだ。

今回発掘調査部分全体
 左が金津山古墳後円部から見た、今回発掘調査された部分のほぼ全体だ。写真の奥の方が南になる。

 所々に堤のように盛り上がってる部分があるけど、これはこうした構築部があったということではなく、地層を見るために残された部分だそうだ。
地層
 つまり、右の写真のように地層が調査される。
 ちなみに、「第1層」は江戸時代の地層で、この時代にはここは水田だったそうだ。また、「真北」と書いてあるところの下、今露出している地面は45万年前、つまり前期旧石器時代の中国で北京原人たちが洞窟生活していた時代の地層になるそうだ。打出のすぐ南には海があるが、金津山古墳付近はかなり古くから陸地だったことが判る。

 金津山古墳の築造年代も、地層の分析、地層からの出て来た埴輪や須恵器ら、上記のようにおよそ 460年頃の古墳時代中期と特定されたのだそうだ。

 南北朝時代の堀あと

 こういう風に地層を見ると、南北朝時代に古い地層が削られて濠が掘られてることが判る。左の写真だ。
 濠は後円部の南に東西方向に掘られていた。更に、打出浜合戦のころの軒瓦、かめ、壷などの遺物も発見されてる。このことから14世紀半ばに後円部に陣を張り、南側に濠を造って敵の侵入を防いだのだろと想像されるそうだ。
 この頃打出での大きな合戦ってば、楠正成の打出浜合戦(1335年)と1351年の足利尊氏と足利直義の打出浜合戦だ。

 楠正成とかが鎧を着てこの金津山古墳に陣取ってたのかなぁ。なるほど、この金津山古墳は少し高台にあって、前方部の頂上からだと、今の国道43号線付近にあった打出の浜がよく見えたはずだ。


 ところで見学会の当日、市の埋蔵文化財課の方に聞いたんだけど、実は後円部も試掘されてて鎧の一部らしきものが見つかり、未盗掘ということが確認されたそうだ。しかし、今の段階では埋め戻され本格的な発掘は後日とのこと。
 未盗掘と言うのはすばらしい。付近には昔からずっと人家があった(小松原遺跡)からかも知れないし、「黄金を掘り出そうとするものには、ことごとく天罰が下る」という伝説が盗掘を防いだのかも知れない。



戻 る トップ