J R 芦 屋 駅


JR芦屋駅北口
JR芦屋駅北口  撮影:2004年 2月12日
JR芦屋駅北口
JR芦屋駅北口  撮影:2004年 6月29日

昭和40年代はじめの国鉄芦屋駅北口
芦屋市広報課 「あしや くらしのハンドブック」より

JR芦屋駅改札口  撮影:2003年 3月 2日

JR芦屋駅南口  撮影:2003年12月12日
JR芦屋駅南側
JR芦屋駅の南側 撮影:2004年 6月16日

 JRの芦屋駅だ。“あしやうまや”って読まないで、“あしやえき”って読む。(笑) JR東海道本線(神戸線)の大阪−三ノ宮間にある。
 以前は大阪と神戸との間で、快速列車が停まる唯一の駅だったんだけど、近頃は快速も西ノ宮や六甲道にも停まるし、新快速なんてのは、時間によっては芦屋を無視して突っ走って行く。実にコシャクだ。(笑)

 しかし、芦屋市内で唯一、駅弁を売ってるのがこのJR芦屋駅だ。しかも、阪神間で駅弁を売ってるJRの駅は芦屋駅と六甲道駅との2つだけだ。(除 大阪駅や三ノ宮駅、元町など、いかにも売ってそうな駅)

 JR芦屋駅は、元々の計画ではここじゃなく、もっと東、打出の楠町の予定だったそうだ。けど、「うるさいのはいやだ」って反対が出て(打出じゃなく)芦屋になったって話だ。
 そう言えば、「鉄道なんてうるさいものは山の中に追いやれ」ってんで、JRの路線は辺鄙なところに敷かれたって話も聞いたことがある。

 実に惜しいことをしたもんだ。もしJRの駅が打出に出来てたら「打出駅」になってたろう。芦屋駅は、芦屋市にあるから「芦屋駅」ってんじゃないんだ。精道村字芦屋に出来たから芦屋駅。

 JR東海道本線の開通は明治7年(1874年)7月だけど、芦屋駅の営業開始は大正2年(1913年)だそうだ。それまで芦屋(や打出)の人は、開通と同時に出来てた西ノ宮駅、あるいは住吉駅との間を人力車、あるいは徒歩で往復して鉄道を利用してたようだ。
 あ、当時はJRなんて言わなかったな。“JR”の前は“国鉄”、その前は“省線”、「そのまえは?」って古老に聞いたら「汽車」って言ってた。(爆)

 なお、JRの東海道線の線路は、珍しいことに芦屋駅の西側で芦屋川の下をトンネルで通り抜けてる。

 上の写真はJR芦屋駅の北口。正確には駅舎はこの東(左)のビルになる。昭和55年(1980年)に古い駅舎から新しい駅ビルになった。駅ビルはモンテメールって名前で大丸・芦屋店などが入り、北側にはラポルテというショッピングゾーンが出来てる。駅ビルの東と西にも商業ビルがあるが、駅の南側にはあまり商業施設がないなあ…

「駅前通り」の看板
JR芦屋駅の北側の
道路は「駅前通り」
という名前だそうだ。

 モノクロ写真は芦屋市広報課の発行する“くらしのハンドブック”からの転載だ。やはり北口。手入れや改装はされたろうけど、これが芦屋駅の一番古い駅舎だと思う。
 しかし、もっと古い写真と比べると、入口の様子なんかがちょっと変わってる。なお、開業当時、芦屋駅には南口はなかったそうだ。
 今でも南口はなんとなく裏口っぽい感じがするんだけど、南側に住む人間のヒガミかな。(笑)

 この駅ビルが出来るまでは、どっちかってば市役所に近い阪神・芦屋駅方面が芦屋の中心地って感じだったんだけど、今はこっちに移ってる。
 特に阪神・芦屋駅北東の商業地、三八通商店街、芦屋本通商店街、甲陽市場などは、阪神大震災で壊滅的な被害を受け、1999年現在、まったくと言っていいほど復興していない。
 ちなみに、平成7年(1995年)の阪神大震災で芦屋市内に残ってた市場は完全に姿を消した。もうスーパーとかコンビニの時代なんだろう。

 阪神大震災のとき、近所の店が全部潰れてしまったんで、震災の翌々日の1月19日、ここの駅ビルなら新しいから大丈夫だろうと、途中の壊れた建物を横目にここまでやってきた。

 南側入口から駅ビルに入ろうとしたんだけど、階段が危険だし、第一、モンテメールやラポルテも内部が目茶苦茶になってて店はやってないとか。ガッカリして帰ったのを覚えてる。
 結局、モンテメールが営業を再開したのは震災から3ヶ月ほどしてからだったと思う。




モンテメール 1999/09/24
JR芦屋駅駅ビル “モンテメール”
撮影:1999年9月24日


 実は、JR芦屋駅北側の町名は船戸町(ふなどちょう)と言う。船戸(ふなもりべ)って言うのは中世の兵船の下級船頭だ。もしかしたらこの辺りに、船を操ったり修理したりする船戸が住んでいたのかも知れない。と、言うことは、昔、この辺りは海からそう遠くなかったのだろうな。なお、古い小字(こあざ)名の“船戸”はJRの駅よりもう少し西、つまり芦屋川よりになる

 ところで、芦屋市史付録の“芦屋市遺跡地図”を見ると、JR芦屋駅北側の東芦屋町付近から南には遺跡が全くないことになってる。
 この辺りは芦屋川宮川とに挟まれた地なので、たびたび両川の氾濫や山津波に見舞われたんだろう。だから、もし遺跡があったとしても流されたり埋まったりしたんだと思う。あるいは水害が多いので、古い時代にはあまり人が住まなかったのかも知れない。



JR芦屋駅東側のガード
芦屋市上宮川町1付近  撮影:1998年10月10日
ガードの右端(東端)、つまり横断歩道のあたりに
今は暗渠となった大溝川があるはずだ


JR芦屋駅東側のガード
同上 撮影:2004(平成16)年 8月 2日
あまり変わってないが、よく見ると左側白いビル壁面の
三和銀行の文字がなくなってる

 これはJR芦屋駅の東側にある、南北の道のガードなんだ。昔は一番右側に見える狭いガードだったんだけど、交通量が増えたんでこのように広くなった。…てば、別にどうってことないんだけど、実はこの工事7年前からやってて、やっとこさ1998年10月10日に出来上がったんだ。
 たぶん、もう少し前に完成させられたと思うけど、平成10年10月10日の“10並び”の日を待ったんだと思う。(笑)

 そりゃ、いやしくも東海道線(神戸線とも言う)のガードだから昼も夜も列車走ってるし、途中で地震があったのも判るけど、それにしても7年…、って思ってしまう。

 行ったのは開通の日のお昼前なんだけど、ガードマンが立ってる左側のタテカンに「開通は本日午後0時」って書いてあった。だから、信号機なんかも、まだ点灯してないんだ。
 って、狙って行ったわけじゃなく、たまたまこの日は近所の花屋さんの開店だったんで、そのついでに散歩してたらここの開通にぶち当たっただけだ。(笑)

 なんだか奥の方に椅子やテーブルが用意してあって、バラの花付けた市長さんなんかを呼んでのセレモニーが終わったか始まるかの様子だったけど確かめなかった。
 もしかして開通式の午後0時まで待ってたら、ビールとまでは行かなくてもスルメの足一本ぐらいにはありつけたかも知れないな。(爆)

 なにはともあれ、芦屋市内は南北の交通が不便で、いつも宮川沿いなど狭い道が渋滞してたけど、このガードが広くなって少しマシになるかと思ったけど、相変わらずのようだ。


Hotel Takezono Ashiya
 蛇足かも知れないけど、駅ビルの北側に“竹園”ってホテルがあって、そこは巨人軍の常宿になってる。甲子園での阪神−巨人戦なんかのときは、ここに泊まるんだね。
 だから、シーズン中にJR芦屋駅あたりをうろうろしてて、下駄履きで買い物してる長嶋監督(当時)に会った人がいる。(笑)





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