芦 屋 廃 寺 跡 実 測 図


芦屋市史 資料編より(一部分)
青字は加筆

奈良時代前期の形式を示す 芦屋廃寺 塔心礎 礎石

撮影:1999年10月31日

 上は昭和42年(1967年)に芦屋市教育委員会が行った発掘調査のときの図面だ。
 このときの調査では芦屋廃寺創建当時の明確な遺構は発見できなかったし、塔心礎の礎石はこの調査以前に運び出されており、どこにあったのかははっきりしなかったみたいだ。

 しかし、塔心礎はあとで建てられた薬師堂の物ではなく、芦屋廃寺創建当時のものと確認された。また、薬師堂跡が確認されかなりの数の瓦や遺物が出てきたそうだ。


 1999年10月には薬師堂跡の、道路を挟んだ南側で発掘調査が行われていた。


 なお、塔心礎にはよく見たら○に+のマークが見える。これは天正11年(1587年)から始まった大阪城(大坂城)築上のときに刻まれたものだ。こういう石が芦屋市内各地に残っており、刻印石と呼ばれてる。


芦屋市内に残された刻印石の一つ

芦屋市春日町14 「芦屋春日コーポラス」北館入口付近
撮影:2000年1月10日


 大阪城(大坂城)築上の際、秀吉は各地の大名に命じて石垣に使う石も集めさせた。その時、大名たちが石に自分のマークをつけたんだね。上の礎石に付けられたマークは○に+だからやっぱり島津さまだ。日向砂土原3万国の島津右馬頭忠興公のマークだってことが判ってる。

 芦屋の山手からも多量の石が切り出されたんだけど、そこら辺にある適当な大きさの石にも目をつけられた。よその大名に取られちゃまずいってんで、良さそうなに手当たり次第にマークをつけまくったんだろう。唾付けだね。(笑)
 この石もマークはつけられたんだけど、なんかの都合で大阪城まで運ばれなかった。と言うことは、まかり間違えたらこの礎石も大阪城の石垣の一部になってたんだ。

 徳川秀忠による大阪城の修復の際にも、芦屋から多量の石が切り出されている。また、明治になってからの鉄道建設のためにも、芦屋から石が持ってゆかれた。
 何度かの大規模は採石のため、芦屋北部の六甲山はかなり荒らされたんだ。これが芦屋川や宮川がたびたび氾濫する原因の一つにもなってるそうだ。